昭和40年代から50年代に少年時代を送った人ならみなだいたい似たようなものだったと思うのだが、僕の場合も主要な遊びはビー玉、コマ回し、三角ベースといったアウトドア志向のものだった。 しかし、同じアウトドアの遊びでも何故か凧揚げはあまり普及していなかった。 宅地化が進み、自由に凧揚げできる場所が急激に少なくなっていった時期でもあった。 僕も空き地を見つけては自作の凧を揚げてみたりしたことはあったのだが、なかなか思うように飛んではくれず、いつも走り疲れてはくたくたになっていた。
そんな1974年、「ヒューストンからやって来た!」というキャッチフレーズとともに、突然僕らの前に現れたのが「ゲイラカイト」だった。
あの独特の血走った目は子供心にかなりのインパクトがあった。 また、松崎しげる風の歌声の「飛べ~飛べ~♪ゲイラ~飛べ~♪」というCMソングも忘れることができない。
そもそもなぜあそこまで血走った目にする必要があったのだろうか? 今にして思えばあれは鳥を威嚇して近づけないためのものだったのではないか、などと考えてみたりする。
当時はあまりの大流行に多くのバッタ物も出回った記憶がある。 運悪くバッタ物を掴まされた友達が「お前のそれゲイラじゃないよ(笑)」とツッコミ入れられて泣かされてたのを思い出す。
ゲイラはとにかく高く揚がる。 揚がり過ぎていつも凧糸は限界まで出し切っていた。 風を受けて暴れるゲイラに体ごと持っていかれることもしばしばで、小さな空き地などでは電線も多くて揚げるのは不可能。 大流行した年、日本中の電線はゲイラの墓場と化した。 当時の電力会社の人たちの労苦が偲ばれる。 「ゲイラは狭い場所では無理」と悟った僕たちはみな手に手にゲイラを持って、放課後の休耕田に向かったのだった。
稲の切り株につまづきながら、ひたすら上空の奇怪な目と対峙した日々。 迫る夕暮れにゲイラの視線が霞み始めた頃、糸を巻いて家に帰った。 あの頃はすべてがシンプルだった。
ゲイラカイト|株式会社エー・ジー