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カテゴリ:Books( 23 )
マクルーハンの光景 メディア論がみえる
b0045944_11261830.jpg 子供の頃、家の廊下の行き止まりに本棚があった。 そこには親の蔵書のいくつかが収められていたのだが、不思議なことにそのなかの3冊のタイトルだけは今でもはっきりと覚えている。 なぜその3冊だったのかということについて言えば、特に深い理由があったとは思えない。 たぶん当時の身長の僕の目線と同じ高さの棚に並んでいたために、何かにつけて網膜に焼きつけられたのだろうと思う。 その3冊とは「サンリオの奇跡」「日本をダメにした100人」「マクルーハンの世界」である。
 「サンリオの奇跡」は上前淳一郎がキティーちゃんでおなじみのサンリオという企業の「奇跡」というか「軌跡」を描いたもの。 「日本をダメにした100人」は、ばばこういちが独断と偏見で選んだ100人を斬った本。 こちらのサイトで当時僕が見ていた本の表紙の画像や不名誉にも「日本をダメにした100人」に選ばれたお歴々のご尊名を見ることができる。 当時子供だった僕は、表紙の中にいわゆる世間で立派だと言われている人たちの名前をたくさん見つけて衝撃を受けていた記憶がある。
 「マクルーハンの世界」はメディア論の始祖とされるカナダの英文学者を評論家の竹村健一が初めて日本に紹介した書である。 ちなみに竹村健一は前出の「日本をダメにした100人」にも選ばれている。
 本人が他界したのでもはや確認する術はないが、いずれも父の蔵書だったのだろうと思う。 特に「サンリオ」と「マクルーハン」については、広告代理店の営業だった父が、何か仕事の参考にしようと持っていたと思われる。

 マーシャル・マクルーハン。 おそらく或る年齢以下の人の多くはその名前すら聞いたことがないだろう。 僕とて子供時代に視覚的な刷り込みを受けていなければ同じだったと思う。 しかし、彼に傾倒し交流を持った人々の名前なら誰でも聞いたことがあるはずだ。 ジョン・レノン、グレン・グールド、バックミンスター・フラー、ジョン・ケージ、ナムジュン・パイク・・・。
 マクルーハンについて主観的に書けるほど彼の著作に詳しくないので、Wikipediaの記述を引用させていただく。

 ハーバート・マーシャル・マクルーハンHerbert Marshall McLuhan, 1911年7月21日 - 1980年12月31日)はカナダ出身の英文学者、文明批評家。 メディアに関する理論で知られる。
 アルバータ州エドモントンに生まれ、マニトバ大学とケンブリッジ大学で学ぶ。 1952年よりトロント大学教授。
 もともと英文学教授であったが、メディアに関する理論の方が彼を著名にした。 あらゆる視点からの斬新なメディア論を展開。
 「メディアはメッセージである」という主張。 普通、メディアとは「媒体」を表すが、その時私たちはメディアによる情報伝達の内容に注目する。 しかし、彼はメディアそれ自体がある種のメッセージ(情報、命令のような)を既に含んでいると主張した。
 テクノロジーやメディアは人間の身体の「拡張」であるとの主張。自動車や自転車は足の拡張、ラジオは耳の拡張であるというように、あるテクノロジーやメディア(媒体)は身体の特定の部分を「拡張」する。 しかし、単純に拡張だけが行われるのではなく、「拡張」された必然的帰結として衰退し「切断」を伴う。
 他にも、「ホット」と「クール」なメディアという分類や、「メディアはマッサージである」というテレビメディア論、グローバルヴィレッジ(地球村)のような分析・視点など、実に様々な理論を展開している。
 生前に、大衆雑誌や映画にも出演したため、「ポップカルチャーの大司祭」というような形容で言い表された。 しかし、学者の間では賛否両論に分かれ、陶酔的に耳を傾ける者もいる一方で、実証的な検討なしの思いつきでしかないというような批判もされた。 現在、メディア研究において重要位置を占める存在のうちの一人とされる。

                                マーシャル・マクルーハン【Wikipedia】

 マクルーハン・ブームは1960年代に突如として起こり、ブームという現象が常にそうであるように、やがてすぐに忘れられた。 しかしながら、本書がそうであるように近年再評価の対象になっている。
 マクルーハンは、1963年に雑誌「ロケーション」に寄稿した文章「外心の呵責」のなかで、電子時代の到来によって私たち人間に起こった変化についてこう述べている。

 電信の発明以来、私たちは人間の脳と神経を地球全体に拡張させてきた。 その結果、電子時代は実に不安な時代となった。 人間は、頭蓋骨を内側に入れ、脳みそを外側に出して耐えている。 私たちは異様に脆弱になった。

 マクルーハンの言葉は論理的ではなく感覚的に受け取った方がその真意に近づけるような気がする。 「考えるより感じろ」だ。
 また、自ら提唱した「地球村(Global Village)」という概念についてこう記している。

 文字文化以後の人間が利用する電子メディアは、世界を収縮させ、一個の部族すなわち村にする。 そこはあらゆることがあらゆる人に同時に起こる場所である。 あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえそこに参加する。

 これを「国境のない世界」とお花畑的理想郷のように解釈していたのがレノンで、後に二人はカナダで対談するのだが、本書にはその対談の模様も収録されており、僕には二人の会話に表面上破綻はないものの、どこかかみ合わないものを感じた。
 レノンと違い、グールドはその概念を正しく理解していた。 彼がマクルーハンの論文「外心の呵責」の翌年にすべての演奏会活動を辞め、スタジオでの音楽活動に専念したのは偶然ではないだろう。
 グールドは自らの著作のなかでドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の一節を引用し、地球村に何らの幻想も抱いていないことを明かす。 暗示的な一節だが、インターネットが世界中に普及した今日の状況をも予見したようにも受け取れる。

 遠いへだたりが克服され、思想が宙を飛んでいくのだから、世界の一体化は強まり、友愛の結びつきはさらに密になる。 そんな主張をする者がいる。 ああ、そのような一体化など信じてはならない。

    Goldberg Variations 1-7
           お時間が許すなら、10分間手を休めてお楽しみ下さい。
                   2分54秒からの第一変奏・・・。

 ケージの場合、「易の音楽」や「4分33秒」など、マクルーハンの登場以前から既に自らが実践していた実験的な音楽のロジックを後発のマクルーハンに求めたのかもしれない。
 ケージについては思い出がある。 1990年に池袋に出来たトヨタのショールーム「アムラックス東京」のオープニングイベントでジョン・ケージがパフォーマンスをやると聞きつけた僕は友人と二人でパーティーに潜入したのだった。 今から思えばバブルの絶頂期だった。
 レセプションでゲストブックに名前を書くために視線を落としていた僕から、すぐ隣のゲストブックに名前を書き始めた男の袖口が視界に入った。 赤い三本線のジャージだった。 「何だこの場違いな野郎は?」と男の横顔を見てみると細野晴臣だった。 彼は上下赤のジャージ、首にはタオルを巻いていた。 相当「狙って」きたのか、単にジョギングの途中だったのかは今でも謎である。 ケージはその2年後に亡くなった。

    John Cage "4'33"
          お時間が許すなら、4分33秒間耳を澄ませてお楽しみ下さい。

 パイクはマクルーハンが提唱した「地球村」の概念をヴィデオ・アートという切り口から実証しようとしたとも言えるのではないだろうか。 マクルーハンの地球村という概念の主要な要素である「同時多発性」を表現するために彼が用いたのは衛星中継、つまりサテライト・アートという表現方法だった。

    A part of the "Wrap around the World"
       ボウイと教授の国境を超えた漫才を衛星中継するとはさすがパイクw

 マクルーハンは奇しくもジョン・レノンが凶弾に倒れた1980年12月8日から23日後の12月31日の睡眠中、脳卒中でその生涯を閉じている。 その2年前にも脳卒中で倒れ、左脳を損なって言葉を失い、自宅で静養中だったという。
 今日のインターネットの発達による情報化社会を最初に予見したのはアルビン・トフラーだった。 トフラーはマクルーハンが没したのと同じ1980年に、その著書「第三の波」において、当時すでに発売されていたアップルⅡ(1978年発売)に搭載するべくアップルが開発中だった「アップルトーク」に着目し、それまでは個別に完結した存在だった家庭用コンピューターが電話回線で結ばれてネットワークを形成することを予測し、それは90年代にインターネットというかたちで現実になった。
 メディア界のトリックスター、マクルーハンが死ぬ間際に夢想したもの、それはどんな社会だったのだろうか。 彼が生きていたら、今をどう解釈し、どう定義したのだろうか? それはトフラーが予見したような即物的で明解なものではなく、空想的で難解なものだったはずである。 そして、それゆえにまた多くの同時代人や芸術家を惹きつけたに違いない。
 我々はこれまで以上に「外心の呵責」と向き合わなければならない社会に生きている。
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by theshophouse | 2008-12-18 02:01 | Books | Comments(0)
偽善エコロジー 「環境生活」が地球を破壊する
b0045944_250264.jpg 本書の内容はそのタイトルに集約されている。 僕もかねてから世間一般で云ういわゆる「エコ」というものには非常に懐疑的な立場であり、最近では誰もが知るところとなったペットボトルのリサイクルのとんでもない実態と、それに群がる役人の天下り先の特殊法人などの利権構造など、こと環境に関して政府が旗振ってやってることの大半はインチキだと思っている。
 それでも、これまで分別して捨てていたペットボトルが、実際は燃えるゴミとして生ゴミや紙屑などと一緒に出して燃やしてしまった方がはるかに環境に良いし、無駄なコストもかからないなどと言われるとにわかには信じ難いものがある。 しかし、本書を読み進めていくうちにそれは確信に変わっていくのである。
 現在、最も環境に悪い生活をしている人について、本書で語られている言葉を借りて定義すると以下のようになる。
 すなわち、「スーパーではレジ袋を使わずにマイバッグ(エコバッグ)を使い、外食ではマイ箸を使い、生ゴミを堆肥にし、洗剤より石鹸を使い、プラスチックや古紙やペットボトルや空き瓶や食品トレイをリサイクルしている人」である。
 自分に関して言えば、これらのうちで自主的にやっているものはひとつもなかったが、最後のプラスチック以降のリサイクルについては法制化されているので、普通に分別して捨てるだけで環境に反する行為に加担していることになってしまうのは悩ましいところだ。 なかでも他人の目に触れるという点で、エコバッグとマイ箸は今後「環境についての情報弱者だけが持つ”恥ずかしい”アイテム」として絶滅危惧種になること間違いなしである。 もしこれから買おうと思っている方がおられたら全力で思いとどまるべきだ。
 最近、僕の住む東京都区部では、それまで「可燃ゴミ、不燃ゴミ、資源ゴミ(古紙、アルミ缶、ガラス瓶、ペットボトル)」と三つに分別して捨てていたゴミを「可燃ゴミ、資源ゴミ」の二つの分別に変更した。
 これは不燃ゴミを燃やさずそのまま埋めていると物理的に処分場が足りなくなってしまうということと、焼却炉の性能が向上し、たいていものはキレイに燃やせるようになったという二つのファクターに起因するものと思われるが、良い方向に進んでいることは間違いない。 もっとも著者はゴミの分別について「金属とそれ以外に分けるだけで良い」との主張を展開しており、それはとりもなおさずかつての日本の姿、つまりリサイクルなんて概念が存在すらしていなかった昭和の頃のゴミ出しの姿に回帰することである。
 家電リサイクルやクルマのリサイクルのために問答無用で徴収される「使途不明税」も「環境のために」と言われれば、国民はたとえ生活が苦しくても払うしかないのである。 要するにエコロジーとかリサイクルなる概念は、バブルが弾けて税収が下がったにも関わらず自分たちの生活レベルを維持しようと画策した役人たちが体よく利用した錦の御旗に過ぎない。
 著者は本書において日本の環境行政のほぼ全般に渡って辛辣な批判を展開しつつ、それが副産物として日本人にもたらした人心の荒廃をも憂う。 その憤りはむしろ後者の方にこそ力点が置かれているかのようだ。
 日本の環境行政を本来あるべき姿に戻すためには、著者のように環境についてあくまで原理主義、実証主義的に取り組み、ドラスティックに改革するしかないと思われる。 国交相に代わって新たな「公明枠」になった感のある環境相だが、個人的には「推定無能」な現職などさっさとクビにして武田氏を民間から登用して欲しいと思う。
 すべての日本人が刮目して読むべき一冊である。
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by theshophouse | 2008-12-05 08:56 | Books | Comments(0)
チベット大虐殺と朝日新聞
b0045944_2324077.gif チベットの独立と自治を支持する人。 たとえそこまでいかなくてもチベットにシンパシーを感じている人なら、その人が朝日新聞を読むことには大いなる論理矛盾がある。
 「チベット大虐殺と朝日新聞」は、1945年からの朝日新聞のチベット報道約6000件を徹底検証した書である。
 かつて中共がチベットに侵攻した時、それを「チベット解放」と伝えたのが朝日新聞である。 以降、朝日新聞は一貫して中共の側に立ってチベット問題を報道してきた。 時には中共のチベット政策を礼賛し、時には(中国国営の)新華社電が伝えるチベット報道に何の論説も加えずタレ流すことに努めてきた。


 【北京3日=加藤特派員】中国・チベット自治区のラサで1日の国慶節(中華人民共和国の建国記念日)に起きた2回目のチベット分離・独立要求デモについて。 3日付の党中央機関紙人民日報など中国主要紙の1面に掲載されたラサ2日発の新華社電は、この「重大な騒乱」状態の中で最低6人が死亡、公安要員19人が重傷を負ったと伝えた。 死者がデモ隊員なのか、一般市民なのか明らかにしていないが、「公安要員は厳命により発砲していない」としている。
 ラサからの報道によると、先月27日に続くこのデモは1日午前、国慶節のお祭り気分の中で発生。 十余人の袈裟を着たラマ僧と、身分不明の数十人の人々がチベットの宗教的シンボルである「雪山獅子」の旗を掲げ、「チベット独立」などのスローガンを叫んで市内随一の繁華街でふだんは外国人旅行者も多い八角街をデモした。
 これに対し公安当局が「祖国統一と安定団結を破壊する違法行為」として規制に入ったが、同報道によると、デモ隊は公安要員に殴りかかり、八角街派出所建物は自動車数台に火を放って破壊。 さらに石で殴りかかったり、公安要員から奪った銃を公安要員や群衆に向けて発砲したという。(1987年10月3日)


 万事こんな具合である。 チベットの僧侶が独立を訴えるデモを行い、それを阻止しようとした中国公安の銃を奪って、公安はおろか一般市民にまで発砲したという、にわかには信じ難いニュースを淡々と伝えている。 もちろん表面上はあくまで新華社電という前提を示しつつも、事件をチベットの側から捉えるような視点、事件を多角的に捉えようとする姿勢はまったくない。 それならば最初から新華社電のベタ記事で良いはずで、そうであれば記事を受け取る側も「はいはい新華社電=プロパガンダね」で済むところ、なまじ北京に特派員がいるせいで、わざわざ新華社電を一度咀嚼して、プロパガンダ色を希釈した記事に作り変えているあたりが実に姑息である。 そしてこの「加藤特派員」こそ、先日まで報道ステーションで古舘伊知郎の隣に座っていた加藤工作員その人である。
 加藤千洋が「工作員」と呼ばれるようになったのは、加藤が「親交がある」とした人物を、その時スタジオに生出演していた安倍晋三(当時官房長官)に「その人は(北朝鮮の)工作員ですから」と指摘されたことによる。 また、それまでは中国が問題視すらしていなかった日本の首相の靖国参拝について、1985年に度重なる批判記事を書き、中共に「ご注進」したのが加藤千洋である。 おかげで靖国参拝は政治問題化し、韓国なども追随して今日のような異常事態に陥っている。 加藤が工作員と呼ばれる所以である。
 先頃その加藤が報道ステーションを降板した。 表向きは一記者に戻りたいということだが、最近急速に露わになってきた、世界中に被害を拡大させる食品・玩具・薬品テロ国家、少数民族抹殺国家、環境破壊国家、民族の宿願であった五輪の終了を待たずして崩壊した経済失政国家など、同氏が異常偏愛してきた心の宗主国の見るも無残な光景をニューススタジオで自ら伝えることに耐えられなくなってきたというのが本音だろう。
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 例によって話が横道にそれてしまったが、同書はそんな朝日新聞がチベット問題をどのように伝えてきたかを時系列で参照しながら、その中国共産党機関紙としか思えないような記事にいちいちツッコミを入れている。 今でこそネットの普及などで世界中が知るところとなった中共のチベット弾圧だが、朝日はそうした今の空気を読み、まるでこれまで何十年と続けてきた「中共によるチベット解放」報道などなかったかのように中立を装った報道をしている。 まさに「朝日新聞」と書いて「厚顔無恥」と読むべきだが、自分らで思い通りの記事が書きにくくなったとみるや、今度は読者投稿を隠れ蓑に本音を晒して見せる。
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 この横須賀市の石井彰氏は朝日川柳の常連であり、この名前でググれば過去の作品などもズラリと出てくる。 おそらくは採用時に朝日から贈られる「朝日新聞」のロゴ入りボールペンのようなくだらない記念品を集めるのが唯一の楽しみで、川柳仲間にその「戦利品」を見せて自慢するのが生き甲斐の団塊世代のおじさんだと類推する。
 むろん石井氏に罪などあるはずもなく、おそらくは中共を揶揄したはずであるこの句も、朝日新聞が採用した場合にはまったく違った意味を帯びるのである。 噂によると朝日とか毎日とか東京新聞とかの論説トップは月に一度中国大使館詣でをするのが義務付けられており、そこで駐日大使の薫陶を受けるそうである。 この川柳を載せた朝日は崔天凱駐日大使からたいそう褒められて大喜びしたはずだ。
 同書に参照された朝日新聞の一連のチベット報道は、今日のチベットの現状やこれまでの歴史を知る者から見れば驚愕するものばかりである。 当初いくつか引用しようとも思ったが、あまりに恐ろしい記事が多過ぎて小欄では紹介し尽くせないのであきらめざるをえない。
 11月、ダライ・ラマ法王が仏教界の招きで来日し、福岡と東京で講演を行う。 朝日新聞はそれを伝えるのか、或いは伝えないのか? 伝えるとすればベタなのか、何らかの論説を加えるのか? どちらにしてもきっとその醜悪な本性を晒してくれることだろう。
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by theshophouse | 2008-10-30 23:40 | Books | Comments(2)
ドル崩壊!
 このところテレビでは経済や金融の話ばかりである。 昨年、アメリカのサブプライム・ローンが焦げついたのをきっかけに瞬く間に世界同時不況の嵐が吹き荒れている。
 個人的には投資とはほとんど無縁なので株価が下がっても直接の影響はないが、外国から輸入をしている関係上、為替が上がると影響はある。 対アジア圏との貿易についていえば、そのほとんどがドル建てで決済されるので、今の状況は輸入する物やサービスの価格が下がるということになる。 また、株や不動産で利益を生み出せなくなった資金が、金や穀物、原油などの現物市場に流れ込み、結果として小麦や原油の高騰を招き、日々の食料品やガソリンや灯油などのコストが上がってしまった。 まあ我が家の「実体経済」への影響としてはそんなところ。 逆に輸出関係、特に中小の製造業の方々にとってはさすがにシビアな局面になってきているのは言うまでもない。
 グローバリズムが支配する今の世の中において、世界経済の動きというのは否応なく日常生活に影響してくる。 別に経済音痴でも日常生活で困ることなどほとんどないが、これだけ新聞やテレビで金融や経済の話題ばかりだと、報じられるその内容や用語について理解や知識があるに越したことはない。 むろん報道のなかでもなるべくわかりやすく伝えようとしてはいるので、今起きている事態について大まかには理解しつつも、今日の世界的な金融危機の相関図を頭の中にイメージできるほどきちんと理解しているかというとそんなことはない。 というより全貌を把握するには事態が複雑過ぎるのだ。
 で、読んでみたのがこの本である。 著者の三橋貴明氏は2ちゃんのニュース極東板の「韓国経済wktkスレ」の有名コテ「三つ子の赤字神」さんであり、この「ドル崩壊!」を著す前に「本当はヤバイ!韓国経済」と「本当にヤバイ!中国経済」を上梓している。
 このさい3冊ともまとめて読んでみたのだが、日ごろ世界経済や国際金融に接していない人でもわかるように平易に書かれてありとても読みやすい。 またすべて著者自ら作製した表やグラフ、チャートも理解の助けになっている。 これは著者のポリシーで、何かの統計などよそから持ってきたグラフや表を貼り付けるのはダメで、こうした図表はあくまで自作する方が読む人にとってもわかりやすいということなのだそうだ。

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by theshophouse | 2008-10-15 01:46 | Books | Comments(0)
海辺の扉
b0045944_3372919.jpg 宮本輝について何かを書くのは難しい。
 僕はこれまで彼の本を金を出して買ったことはなかった。 宮本輝の作品との最初の出会いは、以前住んでいた街の駅前の焼肉店の前で並んでいる時、カバーのない文庫本が道端に落ちていたのをたまたま見つけた。 それが「愉楽の園」で、内容はタイのバンコクを舞台にしたサスペンス色の強い恋愛小説だった。
 うろ覚えだが、その文庫本の巻末の解説に浅井慎平だったか、「宮本輝という作家は心の中に無限の回廊を持っている」というようなことを書いていた記憶がある。 当時僕もその解説に共感を覚えた。
 だが、不思議とその後僕が宮本作品を手にする機会はなかった。
 一時期連れ合いが宮本作品にハマり、友達間で互いが所有していた宮本作品を回し読みしていた。
 僕には奇妙な癖があって、人から「この作家は面白いよ」などと教えられてもなかなか素直に読んでみることができない。 僕と宮本輝の作品の距離は広がる一方だった。
 そんな或る日、本棚を整理していて書店のカバーがかけられた「海辺の扉(上)」を見つけた。 その時たまたま手元にあったすべての本を読み終えていたので、観念して10年ぶりに宮本輝を読んでみた。
 今度はギリシャが舞台だ。 自らの不注意で自分の息子を殺した男が妻と別れてギリシャにやって来て、ギリシャ人の妻をもらい、妻を連れて日本に帰るために危ない仕事に手を出して金を稼ごうとする。 これまた異国が舞台のサスペンスじみた展開だが、不思議と緊迫感はない。 結局すったもんだの末、予想外の大金が手元に残るが、別れた妻からの手紙がきっかけで一人日本に帰る破目になる。 日本では別れた妻との関係を清算し、母親を連れてギリシャに妻を迎えに行く。 妻は男との子供を産んでいた。 男は金を組織に返し、すべてを精算する。
 上巻はなかなか面白かった。 傷心男のギリシャへの逃避行&サスペンス。 暇潰しに読むにはちょうどいい。 僕は近所の古本屋で105円で売られていた下巻を買い求めた。 つまり僕は宮本輝の作品を初めて自分で金を出して買ったのだった。
 ふたたび読み進めると物語の風向きが変わった。 ストーリーに組み込まれた安物のサスペンスがその構成上さほどの必要性もないということが下巻を読み進むうちに明白となり、そこに突然「過去世」とか「転生」とか「釈迦と堤婆達多の因縁」とか仏教用語が散見し始めるのである。 そしてこの物語はそのテーマである「再会」へと帰着する。
 それはやはり彼の個人的な死生観や宗教観によるものだろう。 最初読み始めた時は一風変わった恋愛小説だったものが、最後にはいつのまにか「何か有難い教えへのお導きの書」といった趣きになってしまった。 つまり本書は一種の詐欺的構造をもっており、巧妙にカモフラージュされてはいるものの、或る特定の教えを説く為に書かれたものである。
 作家が自らの信ずる教義を小説というオブラートに包んで世間に流布していくという手法。 一般論として、作家など何かの表現者の熱狂的なファンのことをしばしば「信者」と言うが、この場合まさしくこの例えが相応しい。
 今になって思えば、図らずも僕が長年彼の作品と距離を置いてきたのはこういうスタイルが許容できなかったからなのかも知れないが、むしろ研究対象としての興味は増した。
 宮本輝。 またそんな「不純な動機」から読んでみることがあるかも知れない。
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by theshophouse | 2008-02-27 01:30 | Books | Comments(2)
シリウスの道
b0045944_0385048.jpg 藤原伊織は「テロリストのパラソル」しか読んだことがなかったが、この「シリウスの道」を読む前に読んでいて良かったと思った。 作中の重要な舞台のひとつである新宿厚生年金会館そばのバー「吾兵衛」が「テロリストのパラソル」に続いて登場しているからである。 「テロリストのパラソル」の主人公であるアル中のバーテンダー、島村がオーナーの安井に雇われている店だ。 この酒とホットドッグしか出さないバーとオーナーの安井は重要なバイプレーヤーとして本作にも登場する。
 縦糸は広告代理店を舞台にした企業小説。 或る大手企業の新規事業の広告受注を競合のなか勝ち取るため社内に作られたチーム。 主人公の副部長・辰村を中心にその奮闘ぶりを描きながら、セクショナリズムと謀略が支配する組織のなかで、自らの信条だけに従って生きる男。 そのキャラクターはいわゆる「上からは責められ下からは突き上げられる」中間管理職とは対極にある。
 横糸は辰村の幼少期の幼なじみ二人との映画「スタンド・バイ・ミー」を思わせるエピソード。 ある事件をきっかけに断絶し、今ではそれぞれがまったく異なる境遇に身を置く三人が、一通の脅迫状をきっかけに二十数年ぶりに出会う。
 この縦糸と横糸が織り成す人間模様のなか、縦糸では上司である立花英子との男女の心模様、中途採用で部下になった青年・戸塚の実直で真摯な人柄を際立たせ、横糸では勝哉と明子との心象風景を描き出す。 脇を固める登場人物たちもみな個性的でそれぞれに存在感がある。
 辰村の生き方は、大阪に生まれ長く電通に勤務し、酒とギャンブルを愛した著者自身のセルフポートレートではなかったのだろうか。 藤原伊織が作品のなかで描くどこか無頼な主人公にどうしようもない魅力を感じながら読了した。 世の中には僕のように毎日を平々凡々と生きている人間にはおよそ近づくことすらままならない世界があるものだ。
 著者の藤原は昨年食道癌で亡くなった。 5年前に電通を退社し、作家活動に専念して間もない彼の死は、これから彼が生み出すはずだったであろう多くの魅力的な主人公をも葬り去ることになってしまった。
 やはり数年前に亡くなった僕の父親も大手広告代理店の営業一筋のサラリーマン生活を送った。 僕が大学を出てすぐに東京に行ったこともあり、生前父親と彼の仕事について話す機会はほとんどなかったが、本書を読んでその内実を少し垣間見たような気がした。
 最初にも述べたが、日本のサラリーマン社会において、かつては「悲哀」の象徴でしかなかった中間管理職というポジションの人物を主人公とする作品が増えているような気がする。
 いまだに刑事ドラマなどでは、署長には媚びへつらい、イキのいい若手からはバカにされる部長格のキャラが定番だが、そうした認識が徐々に変わってきているのかも知れない。 いや、現実社会ではあまり変わっていないのかも知れないが、世の男たちの理想像だけは確実に変化しつつあるのだろう。
 佐藤浩市演ずる中間管理職が「男の真ん中でいたいじゃないか」なんて台詞を口にする一連のクルマのCMなど、サラリーマン社会特有の上下関係の軋轢のなかで男としての矜持を頑なに持ち続ける存在は、サラリーマン出身の作家たちにとって格好の素材である。 これからも面白い企業小説にはきっと骨のある中間管理職の主人公がいるはずだ。 そう、中間管理職の「中間」はまさに男の真ん中なのである。
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by theshophouse | 2008-02-14 00:46 | Books | Comments(0)
チーム・バチスタの栄光
b0045944_2341946.jpg 血を見るのが恐い。 だからテレビの医療に関する番組で外科手術の様子などが映されるとたちどころにチャンネルを変えてしまう。 当然「ER」も観なかった。 ぱっくりと開いた人間の胸部。 その奥で脈打つ心臓。 僕が最も苦手とする画である。
 そんな僕だから、この本を読んでみるのには非常な決心が要った。 それでもこの作品が僕に一線を越えさせたのは、そのタイトルに惹かれたからである。
 チーム・バチスタ。 南米あたりのサッカーチームかと思いきや、そうではない。 バチスタ手術を行う集団である。 バチスタ手術とは学術的な正式名称を「左心室縮小形成術」といい、創始者R・バチスタ博士の名を冠した俗称(本書より)で、拡張型心筋症によって肥大した心臓の左心室を3分の1程度切り取って形を整えるという、素人目には悪魔の所業としか思えないような手術である。
 プロット自体はミステリーの王道である「密室殺人」の体裁をとる。 密室はどこにでも存在する。 完全に施錠された個室、土砂崩れで孤立した避暑地の別荘、長距離をノンストップで移動中の夜行列車。 いかにもミステリーにありがちな設定だが、この作品がひときわ異彩を放つのは、その密室が手術室といういわば殺人とは真逆のベクトルに位置する空間であるということ。
 謎解きのプロセスも普遍的なものだ。 通常は刑事や探偵がその場に居合わせた人々に聞き取り調査をしていくなかで犯行の動機を推理しアリバイを崩していくのだが、本作ではその謎解き役が同僚の医者と厚生官僚に置き換えられているに過ぎない。
 しかし、この物語を特別なものにしているのは、厚生官僚・白鳥のエキセントリックなキャラクターと、それを際立たせる引き立て役でありながら、読者の視点をも担う医師・田口の対照的な人物造形である。
 当初水と油のような関係だった二人のやり取りは表面的には最後まで変わらないものの、物語が完結する頃には心の奥深いところで共振するようになる。 そんな二人の関係性の微妙な変化もこの作品の見どころのひとつだ。
 この作品において、この二人の推理を「文系」のストーリーとするなら、現役の医師でもある作者が専門知識と用語を駆使して描写した手術シーンは「理系」のストーリーと言えなくもない。 二つの異質な要素は互いに干渉し、拒絶し、最後には整合し、そして訪れた結末。 そこに潜む、現代医療が抱える危うさの前に戦慄する。

 この作品は映画化された。 小説を読んだ人なら誰しも、この白鳥”ロジカル・モンスター”圭輔の役を演じきれるのは阿部寛をおいて他にはいないと思っただろう。 ただ、もう一人の主人公である田口公平の役が竹内結子演じる女性医師・田口公子になってしまったことには失望を禁じえない。
 内容を知らないので何とも言いようがないが、このご時世、映画だからといって必ずしも色恋沙汰の要素が必要だろうか? この映画におけるキャスティングの妙が田口公平役にあったのは明らかであり、それを当世人気の女優でお茶を濁してしまうのは非常に惜しい。 むろん原作者の同意のうえだろうが、これだけの快作に妙な脚色はやめて欲しいものである。


映画『チーム・バチスタの栄光』公式サイト
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by theshophouse | 2008-02-08 01:43 | Books | Comments(0)
横山秀夫中毒者の独白
b0045944_2232298.jpg 横山秀夫の警察小説に完全にハマってしまった。 もう他の作家を読む気すら失せてしまった。
 『クライマーズ・ハイ』を読んでからというもの、その魅力に取り憑かれ、既に文庫化された数々の横山作品を読み耽っている。
 映画化された『半落ち』に『出口のない海』、三ツ鐘警察署に勤務する7人の男を7つの事件で切り取った『深追い』、D県警本部の内幕を活写した『陰の季節」、珠玉のオムニバスである『動機』、F県警の3人の刑事の覇権争いを描いた『第三の時効』、期せずして事件に巻き込まれていく市井の人々の心理を描いた『真相』、終身検死官の独創的な推理と生き様を綴った『臨場』。 どれも読む者の心を捉えて離さない。
 なかでも、F県警捜査一課・強行犯捜査一係の一班の朽木、二班の楠見、三班の村瀬という、それぞれに強烈な個性を持ち、各々がまったく違ったアプローチで事件の真相に迫る三人の刑事の姿を描いた『第三の時効』は出色である。
 また、「終身検死官」の異名をとるL県警捜査一課調査官・倉石を主人公に、その非凡な鑑識眼と組織に囚われない生き方を描いた『臨場』も爽快な読後感をもたらしてくれる。
 横山秀夫の警察小説は、警察小説でありながら捜査の第一線に立つ刑事や捜査員が主人公になることは稀だ。 そのことが彼の警察小説を彼の作品たらしめている。 彼の多くの作品で主人公になるのは警察という組織のなかでは裏方的な警務課など管理部門の人間である。 そこに派手な事件や突飛な謎解きはなく、日常から滲み出てくるような、それでいて生半可な推理では及びもつかない結末が待っている。
 先に取り上げたのは、そんな横山作品のなかにあって捜査員が主人公となっている作品であり、僕にとって最も印象的だった二作品である。 他の横山作品同様、いずれも短編集のスタイルをとってはいるものの、収録されているいくつかのエピソードには連続性があり、一冊で完結する構造になっている。
 並行して読んでいた村上龍の『半島を出よ』とついつい比較してしまったせいかも知れないが、村上のそれがただ単に情報を積み重ね、てんこ盛りにすることで重厚にする足し算の手法なのだとすれば、横山の場合それは用意周到に練られたプロットを、漆黒の闇という塊から鋭利なナイフで削り出して成形していくような引き算の手法と言えるのかも知れない。
 そのことは物理的に検証することができる。 両者の本をパラパラと見比べてみても、『半島を出よ』が膨大な活字で埋め尽くされ、紙に余白が少ないのに対して、『第三の時効』や『臨場』は余白が目立つ。 例えばアップテンポな曲をつくる時、一定のシークエンスの中に音符をたくさん置くだけではスピード感はでないものだ。 むしろ休符を上手く使うことでそれが可能になる。 一切の虚飾を廃し、行間に豊穣な思いを封じ込めた横山文学に感じるのは、そんな「引き算の美学」である。


ホルモンでーす(ドラマと映画の比較)
クライマーズ・ハイ(映画のレビュー)
クライマーズ・ハイ(小説とドラマのレビュー)
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by theshophouse | 2007-12-19 22:34 | Books | Comments(0)
半島を出よ
b0045944_13274048.jpg 実は村上龍は久しぶりに読んだ。 もしかしたら学生の頃、「コインロッカーベイビーズ」とか「愛と幻想のファシズム」とか「海の向こうで戦争が始まる」とか読んで以来かも知れない。 ここに挙げた三つの小説もどういう話だったかすら完全に忘れた。 ただ本のタイトルだけが、長いこと僕の部屋の本棚を飾っていた背表紙のタイポグラフィーだけが、映像の記憶として残っているに過ぎない。 村上龍に限らず昔読んだ本の多くはそんなものだ。
 そんな僕が「半島を出よ」を読んでみようと思ったのは、故郷である福岡が北朝鮮のコマンドによって占拠されるというフザけた話だと聞いたからである。 文庫化されるのを待って購入。 もとより文庫にならないようでは読む価値もない。
 或る日、北朝鮮から「反乱軍」を装って福岡ドームを急襲したコマンド。 平和ボケの日本政府は即時対応できず後手を踏み福岡を封鎖。 北朝鮮のコマンドは後続部隊も加わって周辺一帯を制圧。 福岡は事実上北朝鮮のコマンドの自治領となる。
 上下巻から成る大作だが、正直上巻は退屈の極みだ。 ストーリーは全体を二つのフェイズ(局面)に分けてあり、それぞれのフェイズはほぼ時系列で更に小さな章に細分化され、それぞれ章において物語の語り部も川崎のホームレス、北朝鮮のコマンド、中央官僚、新聞記者、福岡のホームレスとめまぐるしく変わる。
 上巻が退屈の極みなのは、北朝鮮のコマンドたちが延々と回想する北朝鮮での過酷な現実の描写だ。 作者はこの作品の取材時に韓国に渡り、実際に元北朝鮮のコマンドだった人間にも会って話を聞いたそうだが、かの国についての報道が毎日のようにテレビの電波に乗り、お茶の間でもある程度の知識を得ることができる今日、山梨学院大学の宮塚教授のような北朝鮮マニアならずとも、そこにこれといって新しい発見をすることは難しい。
 僕にとっては単なる贅肉としか思えないような描写が微にいり細にいり延々と続く。 やがてページを繰ることすら苦痛になってくる。 何度も読み飛ばしたい衝動に駆られながらも何とか乗り切った。 読後感じたのは「贅肉は贅肉でしかなかった」ということである。
 本作の下巻の巻末には膨大な量の参考文献が記載されている。 作者にとって本作がいかに労作であったか、それまでは接してこなかった新しい知識を注入しながら創作されたのかは疑いようがない。 しかし、そうして苦労して調べたことはすべて文中に表現したいという、学生の卒業論文的なお仕着せがましさを感じるのも事実だ。
 もしこの作品が映画化されるならば、脚本家の仕事は非常に楽なものになるだろう。 背景描写は緻密で、ささいな登場人物の造形も手抜きがない。 ただ「贅肉」を削ぎ落とす作業に没頭するだけだ。
 しかし、残念ながら本作が日本で映画化されることはないだろう。 事実韓国での映画化の話が進行中で、日韓共作のかたちをとるそうだが、内容が内容だけに表向き日本の製作会社がイニシアチブを取って進めるのは難しい。 そしてまた、そうしたリスクをとってまで映画化する価値もないと思う。
 本作と同様、北朝鮮のコマンドが日本を急襲し、平和ボケ政府の対応が後手に回ってしまうような類いの作品なら、むしろ麻生幾の「宣戦布告」の方が単純にエンターテイメント作品として楽しめると思う。 もっともこちらの作品における北朝鮮のコマンドたちの標的は福岡ドームのような娯楽施設ではなく原子力発電所が並ぶ敦賀半島という、いわば「王道」である。
 最終的に北朝鮮のコマンドを粉砕するのが福岡のホームレスの少年グループというのも受け入れ難い設定だ。 そこには「AKIRA」以降の大友克洋の近未来的世界観の影響を感じずにはいられない。
 一方で作者の圧倒的な筆力を感じさせられるのは、ホームレスの少年たちが「海の鷹ホテル」に潜入し、北朝鮮のコマンドたちと壮絶な銃撃戦をする場面の描写である。 小説を読んでいて自分の心臓の高鳴りを感じることなど殆どないが、この場面の緊迫感は、それがただの活字のみで表現された媒体から受けるものとしては破格のものだった。
 起こっていることは大事件なのに、章ごとに視点が変わり、読む者の意識が集中から散漫へ、ミクロからマクロへ飛んでしまうのが原因なのか、終始平板な展開が淡々と続いていく本作にあって、それは唯一の読みどころなのかも知れない。
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by theshophouse | 2007-12-08 13:37 | Books | Comments(2)
クライマーズ・ハイ
 読み終えた本が溜まってくると、頃合いを見計らって古本屋に持って行くようにしている。 僕の部屋の本棚が小さいせいもあるが、面白い本は他の人にも読んで欲しいと思うのでそうする。 ただし駄本は持っていかない。 常々駄本には古本屋の流通に還流される資格はないと考えているので、そのまま資源ゴミとして出す。 当然の報いだ。 そしてそれは、不覚にもそのような資源ゴミと同義の本を古本屋の棚から引っ張り出すという愚を犯した自分自身への戒めの儀式でもある。
 「クライマーズ・ハイ」はそのどちらにも属さない本ゆえに、僕の部屋の本棚にずっとある。 文庫化されてから購入し、もう3回も読んだ。 ついこの間読み終えたはずなのに、何気なくページをめくって活字を追ううちにいつの間にか作品世界に引きずり込まれて通読させられてしまう。
 そもそも僕はこの話を最初にNHKのドラマで観た。 ドラマ自体の出来も素晴らしく、こちらも何度か再放送されている。 このように秀作と評価されるドラマを先に観てしまった場合、後からその原作を読むと物足りなさを感じてしまうことがままある。 しかし、このクライマーズ・ハイは原作そのものが素晴らしかった。

b0045944_11352448.jpg 1985年夏、同僚の安西と谷川岳の難所・衝立岩登攀に挑もうとした矢先、日航機墜落事故の発生を受けて全権デスクを任された群馬の北関東新聞の遊軍記者・悠木。 物語は、悠木を通して未曾有の航空機事故に遭遇した地方紙の世界を描きながら、同時に息子との距離感に苦悩する父親の姿も捉えていく。
 著者の横山秀夫は上毛新聞に記者として勤務していた頃に日航機事故に遭遇している。 言うまでもなく本作のベースになっているのは、その時新聞報道の最前線に居た人間のみが知りえた膨大な事実である。 そこに12年間に及ぶ氏の報道現場での経験が深みを加え、作品に圧倒的なリアリティを与えている。

 日航全権デスクとしての数日間、悠木は多くの壁に直面する。 毎日の紙面作りに忙殺されるなか、次第に自壊していく報道人としての矜持。 そんな時、悠木の叱責が遠因となって事故に見舞われ死んだかつての部下の従姉妹である望月彩子が持参した一通の投稿が悠木の心を激しく揺さぶる。
 17年後、かつて安西と登るはずだった衝立岩に、その安西の息子・燐太郎と挑む悠木。 第一ハングを登攀中、あと数センチのところでハーケンに届かずアブミから足を踏み外してあわや宙吊りになる。 観念しかかったその時、つかみ損ねたハーケンが自分の息子・淳によって父親のためにその場所に打ち込まれたものであることを燐太郎から告げられ、一度は折れかけた心をふたたび奮い立たせる。
 時間も空間も違うふたつの出来事が、悠木を前に、上にと駆り立てる。 物語の舞台である衝立岩は登攀者が征服しなければならない難所そのものでもあり、人間が生きていくなかで乗り越えていかなければならないものの象徴でもある。

 と、たったこれだけの書評を書くのにすごく時間がかかってしまった。 自分の稚拙な筆はこの素晴らしい作品を語るにはあまりに無力と知る。
 8月12日、ニュースは御巣鷹の尾根に日航機が落ちて22年がたったことを伝えていた。 僕は今、事故当時のことを思い返しながら4度目となるページを繰り始めている。


ホルモンでーす(ドラマと映画の比較)
クライマーズ・ハイ(映画のレビュー) 
横山秀夫中毒者の独白
Uncontrol !
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by theshophouse | 2007-08-15 11:48 | Books | Comments(2)



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